【映画】イノセンスで語られる不完全なヒトと完璧な人形
評価:☆4.1
とんでもなく難解で
とんでもなくキチ〇イで
とんでもなく人を選ぶ
そんなとんでもなく魅力的な映画
監督 |
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脚本 |
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製作会社 |
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公開日 |
2004年3月6日 |
上映時間 |
100分 |
製作国 |
日本 |
IMDb |
7.5 |
それは、いのち。
バトーは
生きた人形 である。腕も脚も、その身体のすべてが造り物。
残されているのはわずかな脳と、
ひとりの女性の記憶だけ。
1. ストーリー
※ネタバレ含みます。画像は全て、映画『イノセンス』より引用。
前作、GHOST IN THE SHELLから3年後の舞台。前作主人公の草薙素子は失踪という扱いになっており、バトーの視点で物語が進行します。
巨大企業ロクス・ソルス社が販売する愛玩用ガイノイド「Type2052:ハダリ」が原因不明の暴走を起こし、所有者を惨殺する事件が相次いだことから、公安9課のバトーとトグサが捜査を命じられます。
アバンでいきなりこれ
これからイノセンス視るぞーって意気込んだ視聴者達に対する痛烈な洗礼。
開始5分でドン引き待った無し。
元ネタは1886年の未来のイヴというSF小説で、人造人間を初めてアンドロイドと呼んだ作品と言われています。この作品に出てくるアンドロイドの名前がハダリで、”理想”という意味だそうです。
ここの描写は実に変態ですね(誉め言葉)
普通の少女かと思いきや、明らかに人間ではない。綺麗にコーティングされた皮膚を剥ぐと人形の継ぎ目が明らかになり、最後に追い打ちと言わんばかりに顔がパッカリと開く。もはや気持ち悪いですね(誉め言葉)
とは言え、ここからイノセンスという、非常に難解な物語が始まります。
人間と機械の決定的な違いは何なのか?
度々描かれる犬にはどんな意味があるのか?
そして神とは何か?
それらを、とんでもない結論で纏めた「押井ワールド」について、僕の解釈を綴っていこうと思います。
1.1 人間と機械の境界
以下は屍体検査官ハラウェイとトグサ、バトーの会話シーン。
バトー「(そのロボットは)三人殺した。うち二人は警官だ」
ハラウェイ「撃たれる前に『自殺』しようとしていた。そうよね?」
トグサ「ロボットが『自殺』ってのはどういうことです?(中略)正確には『自壊』と呼ぶべきだと思うけど」
ハラウェイ「お望みなら。人間と機械の区別を自明のものとしたいならね」
ハラウェイ「ここ数年でロボット関連のトラブルは急増の傾向を示しているの。愛玩用が特にひどいわ」
トグサ「原因は?」
ハラウェイ「さぁ、ウイルスや微生物による電脳汚染、製造工程での人為的ミス、部品の経年劣化による機能不全、いくらでもあるけど」
トグサ「けど?」
ハラウェイ「私に言わせれば、人間がロボットを捨てるからよ。要らなくなってね。モデルチェンジで新製品を次々に購入。廃棄された一部が浮浪化し、メンテナンスも受けぬままに変質していく。ロボットたちは使い捨てを止めて欲しいだけなのよ」
トグサ「まさか……」
ハラウェイ「工業ロボットはともかく、少なくとも愛玩用のアンドロイドやガイノイドは功利主義や実用主義とは無縁の存在だ。何故彼らは人の形……それも人体の理想形を模して作られる必要があったのか。人間は何故こうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらね」
ハラウェイ「あなた子供は?」
トグサ「娘が一人」
ハラウェイ「子供は常に人間という規範から外れてきた。つまり確立した自我を持ち、自らの意思に従って行動するものを人間と呼ぶならばね。では人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか。明らかに中身は人間とは異なるが人間の形はしている。女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく、寧ろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない」
トグサ「一体何の話をしているんです?」
ハラウェイ「つまり子育ては、人造人間を作るという古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった。そういうことにならないかと言っているのよ」
トグサ「子供は……人形じゃない!」
バトー「人間と機械、生物界と無生物界を区別しなかったデカルトは、5歳の時に死んだ愛娘そっくりの人形を『フランシーヌ』と名付けて溺愛した。そんな話もあったな」
初っ端から話がややこしい
語られている要点は三つ。
人間と人形はどこが違うのか。
なぜ人間は人形を求めるのか。
子供とはいったい何なのか。
そしてここの場面は描写も非常に細かいです。トグサは義体化率が低い、ほぼ生身の人間ですが、対するバトーは全身義体化されたサイボーグです。
トグサの吐く息は白いが、バトーの息は白くない。
トグサは寒がっているが、バトーは寒がっていない。
人間と人形の違い、区別の話をしている場面でのこの対比は見事と言う他ありません。
ではハラウェイはどちらなのか?
ハラウェイは終始タバコの煙を吐いているせいで、最後までどちらなのか分からないようになっています。そして最後の最後、「ミスもミセスも要らないわ」という台詞の直後、ハラウェイの目元が開いて、義体化率が高い人間であることが明かされます。所謂答え合わせですね。この一連の流れが素晴らしい。
ここで語られる人間と機械の境界というのは、攻殻機動隊の映画版で一貫したテーマとなっています。シリーズに触れたことがある人ならお判りでしょう。お馴染みの「ゴースト」という概念ですね。攻殻機動隊について語るのであれば、ゴーストについて触れないわけにはいきません。
その前に、ひとつ有名な思考実験を紹介したいと思います。
1.2 スワンプマン
直訳すると”沼男”ですが、これは1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験です。
ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
出典:フリー百科事典 「Wikipedia」
ここで一つの疑問が生まれます。果たして男は死んだのか。
原子レベルで全く同一の存在がいるのだから生きているとも言えますが、その場合、雷に打たれたオリジナルはどういう扱いになるのか。
これに対するアンチテーゼとして、攻殻機動隊ではゴーストという概念があるわけですね。
1.3 ゴーストとは?
テレビアニメ版の攻殻機動隊S.A.C. 2nd GIG 第20話 北端の迷宮にて、次のようなシーンがあります。画像は上記アニメより引用。
タチコマ「記憶を電脳に入れ替えてみたらどうかなぁ? 矢野くん再生しない?」
サイトー「ゴーストが複製できないように、記憶を複製してもゴーストは宿らない」
ここの会話からも分かる通り、攻殻機動隊の世界では、ゴーストの有無が人間とロボットを分ける明確な境界になっています。ゴーストが宿っていれば見た目が機械でも人間だし、無ければいくら見た目が人間でも機械です。だから人間は、自分のゴーストを何よりも大切にします。全身義体された者は特に、ゴーストだけが、自分が自分であることの証明だからです。
でも、ゴーストって何でしょうか?
本当に存在してるんでしょうか?
そんな目に見えない、形も無いものに縋って生きていくって、とても不安なんじゃないでしょうか?
ここに焦点を当てたのが映画版第1作目、GHOST IN THE SHELLです。
1.4 GHOST IN THE SHELL
GHOST IN THE SHELLでは、草薙素子とテロリスト「人形使い」の話が描かれます。「人形使い」とは、不特定多数の人間にゴーストハックを仕掛け、他人を自分の人形に作り変えて操る手口からついたコードネームです。
人形使いに操られた中に、偽の記憶を植え付けられた清掃局員の男(左の男)がいます。以下は作中のシーン。
右局員「しかし、ゴーストハックまでして自分の女房の気持ち知りたいかねぇ?」
左局員「顔もろくに合わせねぇでいきなり離婚を喚かれてみろ。おかげで娘は他人顔。生意気に俺の浮気まで疑ってやがる」
左局員「あんたさ、子供いる?」
右局員「いるように見える?」
左局員「じゃあ分かんねぇだろうなぁ。娘は俺の命なんだ。見てみろよほら。天使みたいだろ?」
右局員「他人んちアルバム覗く趣味はねえよ」
局員「疑似体験って……どういう事です?」
トグサ「だから、奥さんも娘も離婚も浮気も、全部偽物の記憶で夢のようなものなんです。あなたは何者かに利用されて、政府関係者にゴーストハックを仕掛けてたんですよ」
局員「そんな……まさか……」
イシカワ「あんたのアパートに行って来たんだ。誰もいやしない。独りもんの部屋だ」
局員「だから、あの部屋は別居の為に借りたアパートで……」
イシカワ「あんたはあの部屋でもう10年も暮らしてるんだよ。奥さんも子供もいやしない。あんたの頭の中にだけ存在する家族なんだ」
トグサ「ご覧なさい。あなたが同僚に見せようとした写真だ。誰が写ってます?」
局員「確かに写ってたんだ。俺の娘……まるで天使みたいに笑って……」
トグサ「その娘さんの名前は? 奥さんとはいつどこで知り合い、何年前に結婚しました?」
トグサ「そこに写ってるのは、誰と誰です?」
記憶はゴーストを形成する要素の中でも大きなウェイトを占めていますが、その記憶すら不確かなものであると描写されます。自分が大切にしているもの、大切にしている存在も、他人に植え付けられた偽物かもしれない。ヒトと機械の境界が限りなく曖昧になった世界で、ゴーストすら不明瞭であやふやなものでしかない。
このように、GHOST IN THE SHELLでは人間に偽の記憶を上書きする話が描かれます。
1.5 神となった草薙素子
人形遣いの正体は電脳で生まれた生命体、つまりゴーストそのものであり、GHOST IN THE SHELLのラストにて、草薙素子は人形使いと同化し、広大なネットの海に消えていきます。ネット上のどこにでもいるし、どこにも存在しない、偏在する存在となりました。簡単に言うと神に等しい存在となったわけです。
バトー「あいつは行っちまったのさ。均一なるマトリクスの裂け目の向こう。広大なネットのどこか。その全ての領域に融合して」
これとよく似た概念を用いた作品に、「serial experiments lain」というアニメがあります。
「lainは偏在する」がこの作品のテーマ。ネット上に存在する神に人格と肉体を与えてみた、という内容。人形使いと似てますね。最終的にlainは肉体を捨てて神に戻るわけですが、その点は草薙素子に似ています。肉体は魂の牢獄であるという概念はプラトンが最初に提唱した哲学ですが、そういう意味ではエヴァンゲリオンの人類補完計画に通ずるところもあります。
1.6 イノセンス
さて、ここで話を今作イノセンスに戻します。
愛玩用ガイノイド「Type2052:ハダリ」の正体は生身の少女のゴーストをダビングされたアンドロイドであることが終盤明かされます。
つまり、前作と逆のことをしているわけです。
人間に機械の記憶を上書きした前作。
機械に人間の人格を持たせた今作。
それだけでなく、イノセンスでは人間と人形の境界ついて、より深い領域まで踏み込んでいます。以下は作中に登場するハッカーであるキムとの対話シーンです。
キム「人形に魂を吹き込んで人間を模造しようなんて奴の気が知れんよ。真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。崩壊の寸前に踏み止まって爪先立ちを続ける死体」
バトー「電脳化した廃人に成り下がる、それが理由か」
キム「人間はその姿や動きの優美さに、いや、存在に於いても人形に適わない。人間の認識能力の不完全さはその現実の不完全さをもたらし、そしてその種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか。つまり、人形あるいは神に於いてしか実在しない」
トグサ「そろそろ仕事の話しないか」
キム「いや、人形か神に匹敵する存在がもう一つだけ」
バトー「動物か」
キム「"シェリーのヒバリ"は我々のように自己意識の強い生物が決して感じることのできない深い無意識の喜びに満ちている。認識の木の実を貪った者の末裔にとっては、神になるより困難な話だ」
つまりキムが言いたいのは、この世で最も崇高な存在は、無限の意識を持つ神と、意識を持たない人形と、無意識の喜びで満ちている動物だということです。我々人間は不完全な自意識しか持たないが故に神にはなれず、ましてや認識を持たない人形にも、動物にもなれない。種として完全に劣った存在だと述べています。
また、バトーがハダリの元人格として拉致された少女たちを救出するシーンでも、次のような台詞があります。
少女「助けに来てくれたのね。ヴォーカーソンさんが言ってた。きっと警察の人が来てくれるって。助けてくれるって。(中略)ロボットが事故を起こせば、きっと誰かが気が付いてくれるって。誰かが助けに来てくれるって」
バトー「……犠牲者が出ることは考えなかったのか。人間のことじゃねえ。魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか」
少女「だって……私は人形になりたくなかったんだもの!」
普通に考えれば当然の反応です。拉致されて、ゴーストを人形に移植されて、徐々に廃人になっていく状況から、何とかして助かろうとしただけに過ぎないわけですから。
しかし、バトーの価値観は違います。
電脳世界に於いて神に等しい存在となった草薙素子。
無意識の喜びに満ちている愛犬。
そして人形はその二つに匹敵するものです。
バトーにとって人形は最早人間以上の価値を持ちます。そのため、人形に意思を持たせて不完全な存在にした少女に理不尽な怒りをぶつけてしまいます。
そして問題のラストシーン
ハラウェイは、子供を確立した自我を持たない人間の前段階、つまり人間という規範から外れた存在と表現しました。
つまり、子供も人形ということです。
子供は人形や動物と同じく神に匹敵する存在で、だからこそ素晴らしいというメッセージを残して、映画は幕を下ろします。
2. まとめ
劇中ではしばしばブッダの言葉が引用されます。
荒巻「お前は家族持ちだったな。今の自分を幸福だと感じるか」
トグサ「ええ、まあ」
荒巻「ヒトは概ね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きない事だそうだ」
トグサ「何の話です?」
荒巻「最近のあいつを見ていると、失踪する前の少佐を思い出す。"孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく。林の中の象の様に"」
バトー「ひとつ聞かせてくれ。今の自分を幸福だと感じるか?」
素子「懐かしい価値観ね。少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ」
素子「"孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく"」
バトー「"林の中の……象の様に"」
素子「バトー、忘れないで。あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたの傍にいる」
今の自分が幸福かという疑問は、不完全な自意識を持つヒト特有の葛藤なんですね。神も人形も動物も、そんな葛藤は持ちません。既に神となった素子に葛藤は存在せす、その価値観を「懐かしい」と評しました。
葛藤し続けなければならないバトーは、やはりヒトなんです。
全身義体していても、僅かな脳しか残されていなくても、バトーはヒトで有り続けるしかないんです。不完全な劣等種である我々人類は、それこそ孤独に歩んでいくしかないんだと語られます。
簡単に纏めます。
神=人形=動物=子供であり、これらが崇高な存在。
我々人間は不完全な劣等種。
Q. じゃあ我々人間はどうやって生きていけば良いの?
A. 望んだり生きることに飽きるな。孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく。林の中の象の様に。人形を愛で、子供を愛で、動物を愛でよう。神はいつでもあなたの傍にいる。
3. 感想
とんでもねえ作品だよもう。